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当院が推奨している湿潤療法と糖質制限について

当院が推奨している湿潤療法と糖質制限について
2017年12月18日

                    医療法人 堺整形外科医院
                    創始者(相談役)堺 研二

2015年に出版した「間違いだらけの糖尿病食」に湿潤療法と糖質制限のことは詳しく書きましたので、それぞれの医学的内容にはここでは触れず、この2つのことを通して見えるモノの考え方、生き方について述べます。

夏井先生の湿潤療法にしても江部先生の糖質制限にしても「言われてみればそりゃそうだな」というぐらいシンプルで分かりやすく合理的な理論です。ただそれを素直に受け入れられないのは、この考え方が既成概念とはあまりに真逆の理論だからです。
2011年、私は夏井先生の外来を2回見学させて頂きました。その時に一緒に食事をしながらいろんなお話をしましたが、一番印象に残っている夏井先生の言葉は、
「僕は目の前に起こっていることしか信じない。何にどう書いてあるとか、誰それがどう言っているとか、学会のガイドラインがどうだとかはどうでもいい。目の前で起こっている現象はどう考えれば科学的に矛盾なく説明できるのかが全てです。」と。更に、
「僕は湿潤療法の理論と実践に関しては、何時でも誰とでも戦う」と。
実に「カッコいいセリフ」だと思いませんか? 
私はこの言葉にシビレました。それ以来、この「何時でも誰とでも戦う」というフレーズを私も時々使わせて頂いていますが、こういう精神で生きていると敵が増えるのは勿論、痛い目に合うことも多々あり、もう後戻りができない人生になりました。

江部先生の糖質制限にしても全く同じことが言えます。江部先生ご自身は糖尿病について専門的教育や研修を受けたことはなく、自分の頭で考え、自分自身でも実践し、ありとあらゆる文献を読みまくって今日の糖質制限の理論を確立されました。その内容の充実ぶりは皆さんご存知の通りです。ところが2016年のこの期に及んでも、相変わらず科学的根拠もなく糖質制限を批判する報道や書籍が出ては消えていきますが、江部先生はいつもこれらの批判に論理的に理路整然と回答されております。
2016年、残念なことに糖質制限食を自ら実践し、糖尿病と肥満を克服して糖質制限の普及に貢献されたノンフィクション作家の桐山氏が突然死(心筋梗塞?)されましたが、この時のマスコミや世間の反応を見ると、もう目を覆いたくなるような言葉ばかりです。
何の科学的根拠もなく、「ほらね、やっぱり糖質制限とか危ないよ。」というのが大半です。論理的に考えれば糖質制限は心筋梗塞の確率を下げることはあっても、その逆は有り得ません。当然のことながら糖質制限をしている人の中にはこの私自身を含め、ある一定の確率で心筋梗塞などの突然死をすることは考えられます。あくまで確率の問題ですから、その母集団が大きくなると、確率は同じでも母数に応じて発生頻度はそれなりに増えてきます。それだけのことです。これぐらいのことは中学生でもわかる論理です。

今回のように、たまたま出会ったわずかな症例をもって、統計学的なことや科学的根拠も示さずに「ほらね、やっぱり皆と同じ様にしといた方がいいよ」という人間になってはいけません。周りの人がそう言っていても付和雷同せず「待てよ、そうかな?」と自分の頭で整理して、自分で納得のいく答えを出してほしいと思います。

一般的には、多くの人が物事を自分の頭では考えることができず、「何に書いてあった」とか、権威のある「誰それがこう言っている」とか、あるいは「皆がそうしている」、「昔からずっとそうしている」という態度を取ります。つまり自分自身では物事を判断していないのです。

多くの人が自分の頭で考えて行動していないのは、おそらく今の学校教育のせいだと思います。学校教育で評価されるのは、決められた時間の中で、いかに要領よく多くのことを暗記できるか、これでほとんど評価されます。つまり教科書や参考書に書いてあることをたくさん覚えた方が成績優秀と評価されるわけです。しかし実際に社会に出てみると、暗記力が評価されることはほとんどありません。いつでもメモを見ることは出来ますし、ましてや今はインターネットやスマホを誰でも使える時代。分からないことはいつでもどこでも調べられます。問われるのはその情報をどう判断し、どう使うかです。自分の頭で考えることが一番重要なのです。

糖質制限に係るようになって分かったことですが、糖質制限に関し、最も呑み込みが早いのは大小を問わず企業の経営者です。経営者はすべての結果は自己責任になりますから、常に自分の頭で考えて行動していかねばなりません。誰が言っていたからとか何に書いてあったからとか言ったところで、結果が悪くても誰も責任を取ってくれる訳でもなく、自分が全てを背負わなければなりません。そういう環境にあれば、誰しも自分の頭で判断せざるを得なくなります。だから江部先生の糖質制限のように理路整然とした話であれば、「なるほど」と心から納得し、受け入れられるのです。

私には10数年前からスタッフの中から選ばれた若い運転手がいて、1~2年で交代していきますので今は10 人目の運転手ですが、彼らが初めて私の車を運転する時にいつも言う言葉があります。
「青信号、信用するな。赤信号、ビビるな。自分の目を信じろ」
逆に私が最も嫌いな言葉は
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
(これを漫才のネタとして言ったビートたけしは大好きなのですが、、、)
これこそ思考停止、判断放棄以外の何物でもありません。
タイタニック号の悲劇、韓国セオール号の悲劇を見てもわかることですが、船が傾いて沈みつつあることは分かっていながら、船長が動くなと言ったから、
皆が動いていないから、と言ってぎりぎりまで動けず、その結果多くの犠牲者が出ました。自分の頭で考えて行動する人間なら、船が傾いて沈みつつあるのなら、少しでも上の方に行くべきと考えて、そう行動するはずです。ところが普段から自分の頭で考えることのできない人間は、自分の身に危機が迫った時でさえ自分の考えで行動できないのです。

「青信号、信用するな。赤信号、ビビるな。自分の目を信じろ」と、私は本当に運転手に言っていますが、青信号にしろ赤信号にしろ、それは一つの交通情報であって、最終的に進むのか止まるのかはドライバー自身の判断です。念のため、私は運転手に信号無視をせよと言っている訳ではありません。(ちなみに私はゴールド免許です)
平時は信号に従っていれば事故も起こりませんが、常日頃から最後は自分の目で見て判断という習慣がなければ、非常時にはみんなと一緒に仲良く沈んでいくことになりかねません。

夏井先生の湿潤療法にしても江部先生の糖質制限にしても、我々にとっては既に常識というかスタンダードになっていますが、医学界全体で見れば、いずれもまだまだマイナーな考え方です。これを高らかに謳うと多くの医師や医療機関、学会や医師会などを敵に回すことになります。
当院に非常勤医師として来てくれている産業医大の若い整形外科医たちと話をしていると、彼らは「湿潤療法のことはよく知っているし、ここでは自分も湿潤療法の考え方でやっているが、大学病院では従来の創処置でやらざるを得ない。」と言います。

糖質制限にしても2014年に行われた日経メディカルオンラインのアンケートでは、約6割の医師が糖質制限の考え方を肯定的し、実に3人に1人の割合で私と同じ様に医師自身が糖質制限を実践していると答えています。しかし無記名のアンケートには「糖質制限を支持する」と答えても、それを大きな声で言える医師はほとんどいないのが実情です。江部先生の糖質制限の勉強会に参加していると、勉強会の後の懇親会で多くの糖質制限推進派の医師とお話しする機会があります。彼らはたまたま自分の外来を受診した糖尿病の患者に対し、糖質制限を勧めているのがほとんどです。他の医師や病院に気遣って院内で糖質制限のことを啓蒙したり、「糖質制限」という文字を診察室の内外には表記はしていないのです。もちろん、中には積極的に糖質制限のセミナーや勉強会を開いて啓蒙活動をしておられる方もいますが、それはごくごく限られた方で、数えるほどの存在と言っても過言ではありません。

皆さんご承知の通り、当院では院内に糖質制限に関する掲示物が多数あるのは勿論、「福岡糖質制限クリニック」と外の看板にも堂々とデカデカと表記しています。当院挙げての糖質制限に対する本気度と覚悟がお判りでしょう。
いずれにしても最後には真実が勝ちます。自分の頭で考えて正しいと思ったことは勇気をもって進む。これが一番大切なのです。

一方で皆が動いていようが自分で納得いかなければ、一人ででも立ち止まる勇気というのも大切です。「納得がいかなければ一人ででも立ち止まる」というほど大げさなことではありませんが、私の子供の頃の洒落たエピソ―ドを一つご紹介します。。

悪ガキ時代
私が小学生の頃の話です。
当時宿題と言えば、毎日漢字を2ページ書いて提出することでした。私が小学4年生のある時、クラスの一人の男の子が2ページの宿題を10ページも書いてきて、担任の先生にとても褒められました。するとこの子はさらに15ページ、20ページとページ数を増やし続け、それにつられてクラスの誰もが2ページの宿題なのに10ページ、20ページとページ数を競う様になっていきました。私は当初から「そんなことして何の意味がある?」「漢字は2ページも書けば十分覚えられるんだから、何ページ書いたって意味ないだろう」と言って無視していました。
しかし最後には、私以外のクラス全員が毎日10ページ以上の漢字ノートを書いてくるようになってしまいました。そこである日のこと、隣の席の女の子の漢字帳を見てみると、「泳ぐ」という漢字を書くに当たって、普通に「泳ぐ」と書けばいいものを、わざわざ「泳いでわたる」と平仮名を多く使ってページ数を稼いでいるのが分かりました。
「お前はアホか」と言ってその女の子をからかっていると、担任のM先生が私の席にやって来て、
「堺君、あなた以外はみんな頑張って宿題以上のページを書いてきていますよ」と。
そこで私は予てから考えていたイタズラ心もあり、
「ハイ、M先生分かりました。それじぁ、10ページとは言わず、僕は今日一日でノート1冊分、漢字だけを平仮名なしで書いてきます。」と答えました。
これからは確信犯。
私は家に帰ると、漢字練習帳のすべてのページに定規で横線をマス目の真ん中に書き、今度は各マスに沿って縦に消しゴムで切れ目を入れて終了。各ページに漢字の「一」という文字がきれいに200字ずつ並びました。これにはM先生も驚いたようで、提出した漢字練習帳を私の席までもってきて「堺君、これは何?」と。
「ハイ、漢字の一です。」
M先生は絶句していましたが、それ以来、誰も漢字を2ページ以上書いてくることはなくなりました。目出度しメデタシ。まあ、可愛げのない小学生ではありました。

これには後日談があり、今から5年ほど前、私の出身地である長崎県諫早市から来院されたご年配の患者さんが当院で膝の骨切り術を受けられました。この患者さんは、偶然にもこの漢字事件の時のM先生と長年の親交があったとのことで、退院後にお二人で食事をする機会があったそうです。その際にM先生は、目の前にいる親友の手術をした医師(つまり私)は、かつての自分の教え子と思いだしてくれ、今日の私の様子を知ってとても驚いていたそうです。
私が患者さんに「M先生は私のこと、何か言ってましたか?」と聞いたところ、
「いい方に転んでよかったーと、とっても喜んでいましたよ」と。

話が妙な方向に行きましたが、要するに自分で納得がいかないことはしない。自分が正しいと思ったことは先陣を切ってやれ、ということです。

自分の道は自分で決める
「代替医療との関わり」のところでも述べましたが、大学病院勤務を辞めて整骨院に弟子入りする医者なんて自分以外に聞いたこともありません。 しかし私は医学部の学生時代に自分の目で見た「整骨院での治療の世界」を信じ、自分が信じる道に進みました。
学生時代に整骨院でみた世界は、患者さん達はいろんな症状を訴えてきますが、整骨院では薬を使う訳でもなく、今の当院の臨床治療室でやっているように、背中や四肢の筋肉の緊張をほぐしたり骨盤を調整して痛みを取っていました。

大学5年の時に臨床実習で大学病院の外来に出て患者さんを診察してみると、当時の大学病院は今のように紹介状がなければ診ないということはなく、一般の開業医とさして変わらないようなレベルの患者さん達も多く受診されていていました。したがって私が整骨院で見たり聞いたりした様な症状を訴える患者さんが少なからず来院されていました。大学病院ですから当然ながらいろんな検査をしますが「異常なし」ということが多く、その状況を見ていた私は、「これは整骨院に行けば治るのになー」と一人思っていました。

そうして卒業後は何科に進むべきかと考えた時、私は「将来は整形外科に整骨院でやっているような代替医療を取り入れた統合医療」という形を漠然と描いていましたので、卒後の進路としては整形外科、リハビリテーション科、神経内科を検討し、結果的に神経内科を選びました。初めから整形外科に入ってしまうと、代替医療の世界からはどんどん離れていき「普通の整形外科医になってしまうのではないか」という漠然とした不安の様なものがありました。
そう云う訳で私は卒業後、産業医大の神経内科医局に籍を置いた上で内科全般を2年間ローテーションし、その後代替医療の道に飛び込んで行きました。
ですから、今から20数年前に大学病院を辞める時点では、私には漠然とした将来像しかなく、今日の診療体制が描けていた訳ではありませんでした。もちろん当時、私が考えていたような医師像など全く前例はなかった訳で、ただ自分の頭の中で漠然と描いた世界ですから、所属していた神経内科の教授を筆頭に周りの人たちを説得するのには苦労しました。「大学病院を辞めて整骨院に弟子入りして代替医療を学びたい」という私の説明に対し、教授が最後まで「カルト教団などの新興宗教に入信しようとしているのではないか」と心配して頂いたのも当時としては無理なからぬところでした。

代替医療に取り組むべき東京に出て行った後、偶然な出来事から関節鏡のパイオニアで世界的に有名な陳永振先生と知り合い、そしてこれまたいくつもの偶然が重なって九大整形外科に入局するなど紆余曲折の末、今から15年前に小さなビルクリニックを開業しました。開業後も数々のトラブルに毎年のように見舞われながらも理想の医療を求めて走り続けていたら今日の状態になっていたという訳です。医師になってからこの27年間、私は常に道なき道を歩んできた感がありますが、一つだけ間違いなく言えることがあります。それは、自分の人生は全部自分で考えて歩んできたということです。

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